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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§154 小学生の社会と理科の学習についてVOL.3
<そして教科書から離れる>

 小学生の社会の学習に関して3回目。今回は生徒側の問題点とその学習のしかたについて、少し。

 前とやや、文面を変えます。より一般化して。
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「学校では、・・・。ところが、息子(or娘)はさっぱり解らないというか解
ろうとしない。自分の側に社会が引き寄せられない。その努力もしない。彼
(or彼女)の嫌いの言い分は、人名では同じ名前が多いし、各時代に何があっ
たのか、どんな出来事が起こったのか、1,2ヶ月も後になるとその内容はあや
ふやになり、覚えている内容も足りないような気がするというのです。
 難しい言葉が多すぎる。公地公民、班田収授の法、荘園など字が難しいだけ
でなく、公地公民、班田収受の法って、どういうことだった? 荘園って何? 
公地公民から荘園へ変わっていく過程が全くわからない。」
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 簡単です(簡単ですと単純に言えるなら精神衛生上とても好ましい。もちろんわたしにとって。しかし現実はそこが、・・・)、わからなければ、そして忘れたなら、教科書を読み返せばよい。一度でよくわからなければ、二度三度読み直して、自分のいま不明の部分とその周りを、文章はもちろん写真、イラストなどをしっかり見つめ直せばいい。算数や数学の応用問題と違って、この作業を積めば、殆ど誰も社会はわかるはずですし、また覚え直せるはずです。

 これがまず、基本中の基本の学習の姿勢です。けれども、塾生の中学生なんかを観ていますと、こんな容易いことも実行せずに、ただじっと動かずに指示待ちというか、誰かが(つまり私なんかが)何とか方策を考え対策をしてくれるだろうと、そんな何から何まで他人に依存、ヘッジする気持ちが見え隠れしていることが多いのには、なんとも厄介、憂鬱に感じることもなかにあります。

「自分のことだろうが! 自分でできることは、自分でもっとしろっ!」
 これは特に中3生の受験に絡む作業のなかで感じることですが、この与えられたことしかしない彼らの気質(?)、行動の遠因は、小学時代にあるのは間違いない。今現在の勉強やこれからの予習ならまだしも、習ったことの復習、それもちょっと調べればわかる程度のことは、その都度こまめに自分でする。当たり前のことを厭わずにしごく自然に実行できるように、その基本を小学時代に是非身につけてもらいたい。

 前々回のVOL.1でも書きましたが、習った当初は何でも、大体3割しか頭に入っていない。この自覚と意識が生徒に欲しい。是非、欲しい。ほんとうに欲しい。本来は、言われずとも自分で持っているべきです。ところが不思議なんですが、公立中学生の10人に9人は持っていません。

 私立中学受験を体験してきた生徒なら、そのあたりが骨身に沁みていることが多いので、もっとも、与えられたものを消化するのに汲々としてまったく受動的な勉強しか身についていない生徒はその限りではありませんが、まあ、わたしなんぞの塾に来る生徒は、ほんのごく一部を除いて受験勉強を全然踏んでいない生徒ばかりであり、その面でこの数値は、全体で瞰れば正しいとは思っておりません。10人に7、8人は持っていません、と言い換えるべきでしょう。

 教える側の力量と授業の質によって、その3割は5,6割にもなるのですが、それでもまだ習得には半分の段階に過ぎないことを知っておくべきですし(もちろん生徒が)、それはVOL.2でも書きましたようにあまり多くを期待すること自体、おかしい。あくまで生徒自身の課題です。残りの部分は自分で詰めていくこと、これが学習の基本です。

 とはいっても、そうしたら何をしていけばいいのか?ということになりますが、あくまでそれは平凡な答えしかない。基本とは常に平凡なことでしょう。問題はそれを継続して行うこと、平凡なことを常に自発的にできるかどうかにかかっています。わたしも既にいろんな科目のなかでで繰り返しその具体例を述べておりますし、それ以上に皆様が十分に認識していることだと思います。

 さてもう一点、気になることがあります。それは上の文章中の「難しい言葉や漢字が多すぎる」という生徒の意識感覚です。これは、大勢の生徒がいま抱えている国語力の弱さと密接に関わっています。いや、そのものでしょう。国語の文章の読解どころではない。算数の文章問題(それも応用問題になればなるほど)の問題の意味やそのポイントが読み取れない、こうして社会にも理科にもそれは、じわりと響いてきます。やがては英語にも。

 わたしがここで指している国語の力とは、比較的難解な文が読めるとか、素晴らしい作文が書けるとか、一部の私立中学入試の国語の長文を短い制限時間のなかで読み込みとその正解を導き出す能力を身につけるとか、そんな力をいっているのではもちろんありません。学年といいますか年齢に相応したごく普通の国語の力です。

 たとえば社会なんかでも「公地公民」を解釈する力です。漢字を噛み砕いて、ははん、そういうことか、と自分で理解する力です。小6でその力が備わっていなければ、中3にもなればその力が身についていると思われますか? 

 この大事な成長期の3年間の差はふつうかなりあると思われるのですが、また格段に学習するその内容にも広さや深さ、多面的な理解もそれなりに備わってきて当然なんですが、肝心のそれを支える国語の力とその土壌が、どうにも成長が止まっているのでないか?と、疑いたくなる中学生の何と多いことか!

「学問のススメ」を著した人物は誰か? 福沢諭吉の諭吉の‘諭’が正確に書けない以前に、問題文そのものの中で、著(ちょ)したと読んだり、著(いちじる)したと読んで平気でいる中3生が一体どのくらいの割合でいるかご存知でしょうか? これらの生徒を含めそれ以上の割合で「公地公民」を解釈する力のない生徒は多いわけです。つまり中学で3年間、国語も含めなんやかんや勉強してきたわりに、国語の力そのものには、進歩の跡があまり感じらない。

 日頃ろくすっぽ本も読まないで、どうして国語の力をつけることができるんだろうか?! この肝心なことをすっぽり打っ棄って、国語の力をつけるのはどうしたらいいのかという、既に質問自体に大きく穴を開けている漠然とした質問を時折いただくわけですが、はっきり申して憂鬱です。なぜなら、わたしは国語の専門家ではない上に、既にその多くは、時期を逸しているとしか見えないからです。わたしの回答は、本を多いに読むこと、これしか持ち合わせていません。それは十分条件ではないけど、絶対的な必要条件である。そう考えています。

 難しい言葉や漢字が多すぎるという感覚、そこには既に、目には見えない国語力の紛れもない弱さが内包されています。学習の目線を先に遣らず、もっと今現在の足元を見据えて歩まれんことを希みます。

 さて、小学時の折の社会の学習のしかた。しかたと書けばなにかその枠が限られてしまうイメージが付き纏いがちですがそうではなく、もっと自由にいろいろな角度からまた機会から、そして一つの手段でも様々な段階を積み重ねることなども視野に入れて、取り組んでもらいたいと思うのです。

 教科書の内容をまずきっちり押さえる。いまの教科書は見た目も薄っぺらで内容も比例して浅く狭いものですが、それならばそれですべて理解ししっかり覚えこむのは簡単ではありませんか。その簡単である作業をまず実行してください。

 しかしその作業は簡単なのですが、実はよく視ると、気がついていないこと、見落としていることが結構あるんですね。このメルマガを書いている最中にも、家のシステムキッチンの、いやそんな立派なものではない、流しの下の扉が1枚、長年の耐久に磨耗してすっぽり取れちゃったのですが、昨日金槌でコンコン繋ぎの部分の錆びたステンレスを打ち付けて、緩んだ隙間をなくし取り付けたまではいいのですが、どうもこの種の仕事は苦手というか出鱈目というか中途半端というか、数時間後案の定、またガタンと家中響く大きな音を出して床に落っこちてしまいました。

 家族の白い目と無言の蔑視を背に感じつつ今日、今度はかなりしっかり「本気に」なって、その原因を調べました。ふふん、そうかあ、と納得しました。昨日は蝶番の流し台のほうのステンレス側だけを叩いて隙間をなくしたのですが、今日は外れた扉側の金部分の隙間を拡げてみたわけです。結果は見事合格。我ながら上出来です。誰もそんなことで称めてはくれませんが、一応男としての形はなんとかついた、とほっとしている次第。

 まあこの種の、最初に見落としていること気付かずにいることなんか、勉強や仕事のなかに留まらず、日常のなかにもほんと山のようにあるわけですが、そのなんとも頼んない目とわかったつもり出来たつもりをカバーし改めるには、単純だけど二度同じことをすることはかなり大切、それも基本ではないかと思う。なかにはもちろん、三度や四度しなければならないことも当然出てくる。そうするなかで漸く観えてくることもあるのだ。こんな当たり前のことを書くのはなんともやりきれない面も感じるが、わかっていない生徒が多いので、あえて書く。

 ただ一概にいえないけれども、まったく同じ視点で物事を観るのは二度でいい。三度目から視線をややずらしながら学びたい。そして教科書から離れる。

 次にふつう浮かぶのは、問題集をすることであろうけれども、それは学ぶ視点が変わったり大切な点がわかったり、また新しい知識にも少しは出遭うので新鮮でよい。でもね、ここで終われば、7割ぐらいしかまだほんとうには身についていないんですよ。

 一体何をもって十とするのか、その基準を明らかにしていませんが、また計る尺度のよってそれは如何様にも変化するものですが、それはここではあえて規定はしません。一般の感覚で十分です。

 その7割の後の勉強が実は、ほんとうの実力に繋がる、とわたしは思っております。その一つは自分流のノートまとめ、二つ目は歴史なら歴史年表の作成、地理なら日本地図の作成(中学生の場合は世界地図も)です。画用紙に色を適当に別けて使いながら手書きの年表、地図を作る。出来ることなら自分の工夫を盛り込めば、さらに良い。これは真似事でありまた創造でもあるのですが。次の三つ目は、教科書と併用して使われている資料集などにじっくり目を通す、関連する本や雑誌を読む、テレビ、インターネット、新聞などで歴史に関する番組や該当する欄から様々に知識を入れるなど、雑学はどこでも出来る。

 これらを通して、その何重にも重なった部分が、揺らがない学力の骨子になり、また豊かな土壌を形成するのは容易に想像できるかと思いますがどうでしょうか? 理科についてはまったく触れてきてませんが、まったく同様です。
 
 勉強のしかたがわからない、とよく小学生も中学生もいいますが、上で書いた内容に照らすとそれはまだ、3割から7割のところをうろうろしているに過ぎないといえます。実力をつける勉強を目指すのなら、いまの学習でいいのか?をもっとじっくり考え、幅を拡げる対策と行動を試行錯誤しつつ体得してほしい、そう考えている次第です。夏休みなどはいい機会です。