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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§268 国語に関する質問について、再度
<ひたすらいい文章を音読暗記>

 ときおり、高校時代の友人と会う。年に3、4回か。いっしょに昼飯喰って、お互い好きな喫茶「にしむら」の美味しいコーヒーを飲んで、暫しのあいだ、とりとめない雑談をする。

 あるとき、ふいにその友人は発した。
「国語って科目は、必要か?」
 わたしは、ふぅーんと溜息をついて、答えた。
「まあー、べつに、なくてもいいよなあ・・・」

 これはある種、究極の問答である。常識の97%は除外して、お互い残り3%の土俵での対話である、と思ってほしい。彼は高校時代、新聞部の部長をやっていたし、わたしのほうはそのころ、ドストエフスキーの、あの重い一連の小説に魅了され、嵌り込んでいたかとおもえば、ショーペンハウエルやサルトル、ニーチェなどの哲学書を99%わかりもせず読んでいた。想えば、ちっとも明るい日々ではなかったが、それでもいい時代であった。

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 他の科目に較べて国語の点数が目だって悪い。国語が足を引っ張って、全体
の評価を下げてしまう。などの理由で、国語の勉強をどうしたらいいのか、国
語に関して良い問題集を薦めてくれないか、のご質問が、毎年寄せられる。
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 それはたとえば社会担当の先生に、受験の応用段階の数学を教えてくれないかというもので、そんなことはふつう誰もしないと想うのですが、どういうわけか勉強のことなら何でも知っているだろうと思われがちなのが、つらいところであります。知っていることは知っている、知らないことは知らない、へんに知ったかぶりはしないが、わたしの素朴な信条である。この当たり前のこと
が、世間では、ときに難しい。

 このことに関してはすでに、ホームページ上の「§194 国語に関する質問につきまして 」で載せていますが、今回はなぜこの種の質問には答えないのか、そのあたりのことについて書いてみます。その答えの理由はとまれ、初めにすでに書いてあるのですが・・・。

 大学入試に受かるための英語は、どんな説明をつけようといわゆる「受験英語」です。これを批判する気持はまったくもっていない。しかし国語は、数学、英語、理科、社会の他の4教科と同じ感覚で捉えることが、どうもわたしにはできない。そのわけはさておいて、生徒も親も国語の力を上げるために求めているのは、ずばり国語力の地道な養成より、受験英語ならぬ「受験国語」とも呼ぶべきそのノウハウとテクニックであろう。

 説明文や論説文、あるいは随筆や小説の読解のために、問題文はあとまわしにして、まず最初に設問を読むことを勧めるテクニック。設問を意識しながら、文章をバラバラに分解して部分ごとの意味をつかみ、さらに括弧でくくったり下線を引いて部分のまるで図形的なつながりで全体を解釈するという技巧的な手法。そして指示語が何を指すか、筆者の主張は何か、さらには選択肢でのもっとも適切で客観的な答えの選び方など、こられのテクニックや手法、あるいはその導き出し方の要領を身につけることができるものを捜している。

 とくに大学入試では役立たなければ意味がないのだから、この国語への攻め方は他の科目と同様、予備校の第一義の目的である。私立中学入試もいまやまったく同じか。ただ高校受験だけは一部大手の進学指導を除き、多くの塾の形態では生徒そのものの力もあり、不十分であろう。しかし、このことは本来、「国語を学ぶ意味や価値を知る」ことを教えねばならない、そして生徒自らが学ばねばならない問題の裏側にある事実で、むしろ表側のいまの貧弱な居ずまいを、どちらももっとしっかりしてほしいと思うのだけど。

 まあはっきりいってわたしの個人的心情は、表側であろうと裏側であろとどちらにも幻滅しているのであり、それゆえ興味はないのである。そもそも中高とわたし自身、国語の点数を上げるためにどういうふうに勉強すればいいかと、質問をしたことも考えたこともない。これはわたし独りではなく、周りもほとんど同じあったと思う。いまの時代だけである、このようなことを問うのは。国語の裏側の勉強なんか存在もしなかったわけで、ただ表側の勉強を粛々としていたにすぎない。

 また国語なんぞ、中学のある時期から、学校の教科書や授業から間接には得られたものはあろうが直接その力を磨かれたという記憶はまったくなく、ただ自分で、漢字や語句(慣用句・諺・四字熟語)、語彙、文法などは学校とは関係なく勉強したこと、しかしそれには特別すばらしい問題集があったわけではなし、あと日本、海外の古典小説中心に、読書だけは欠かさずまた厭きもせずやったにすぎない。それだからといって格別国語が抜きんでてできたこともないし、また高校では古文・漢文に相当わたしも苦しんだくちである。


 わたしの敬愛する、中野孝次のある著作のなかの一節。
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「子の曰(のたま)わく、由(ゆう)よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。
これを知るをこれを知ると為(な)し、知らざるを知らずと為せ、是(こ)れ知るなり」
                                          『論語』

 こういうものをむりやり読み、覚えたものは、年をとった今でもわたしの記憶に残
っていて、ときどき口をついて出てくるのである。これをもってしても少年の頃の
教育は、文章の意味などを問うよりひたすらいい文章をくり返し音読暗記させた
方がいいことがわかる。
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 もう、この言葉に、なにも足すものはない。それほど国語に関する学び方と接し方の急所を、簡潔明快についている。

 むりやり読むこと。文章の意味などを問うなんて、いちいちけちで忌まわしい作業(?)などしなくてよい。その代わり、これぞと思ういい文章をくり返し音読すること。そして暗記してしまうこと。

 むりやり読ませるのではない。自発的にむりやり読むのである。文章の意味など問うひまがあれば、文章そのものをもっと味わえ、受け取る自分の感性、情緒、そして想像力を育め、と思う。これぞと思ういい文章に出遭ったら、それは詩であったり、俳句や短歌であったり、有名な小説の一部であったりするだろうが、諳んじるまで音読せよ。

 小学5、6年といえばさすがにわたしたちの年代、論語とか百人一首とかの短歌の世界には無縁であったが、それでも正岡子規、高村光太郎、石川啄木などの詩や俳句、短歌はいくつか諳んじていた。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」もたしか6年の夏休みに、ただただ惚れこんでしまい、声嗄らして繰り返し詠んでは、暗記してしまったことを憶いだす。

 ここにあるのはただ、楽しい感覚とゆるやかな時間の流れだけである。学校や塾の先生による、教科書や問題集の語句の説明や意味の解釈など、くそくらえである。自由でやわらかい空気のもと、自分の想像を気儘に働かせればよいにすぎない。

 国語とは、外に求めるべきものではなく、内に求めるべき営為が、その本質であろう。そう、わたしは把えている。外に求めて得られるものは、ご存知のようにたしかにあるだろう。しかし、内に求めるべき営為こそがほんとうには大切であって、またそれは自発的にするものでなくてはならず、その意味で、ご質問の趣意とわたしの意いとは常にまったく食い違うのである。

 <付記>
 夏休みをどう使うか?! VOL.3<中1・2生の場合>に差し替えて、今回は書きました。
 小学生も含め中1、2生にとっての夏休みというものは、平常の学習や環境から離れたところで、自由闊達に各々新しい経験と自分の世界を拡げていくいい機会であり、またその貴重な時間なわけですが、その意味でいま、勉強に関してはともすると塾の夏期講習など他者にただ依拠する姿勢と考えが多いなか、自分で課題と目標を決め、やることの意義とすばらしさも、ここではその理由は省きますが書いておきたい。と同時に、上記で述べたように、勉強から離れたところでの国語の内なる営為、つまり読書を、ぜひ気儘にしてもらいたいと希っている次第です。