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§309 先行学習について VOL.1
<止まるを知る>
「止(とど)まるを知りて、のちに定まるあり」
という言葉が、四書のひとつ『大学』のなかに在ります。
宮城谷昌光氏の訳では、「人は、とどまるべきところを知れば、物がどうして生じるのか、といった原理を、会得することができる。そうなって、はじめて人の主体性が定まるのである」と、書かれています。そのあとの叙述は割愛するとして、人が主体性を持ったら、そのあと、どうなるのか。
一、主体性が定まったら、盲動しなくなる
二、盲動しなくなると、どのような環境におかれても、心を安定させられる。
三、心が安定すると、心に余裕ができ、さまざまなことがらについて、もっと
適した対処ができる。
四、最善の対処ができれば、成果が得られる。
したがって、ここまで自分をみちびいてくる道の、最大の難所は、いかに「止まるを知る」かにある。止まるべきところは「至善」、つまり、さがしあてたもっともバランスのよい点、無理を生じないところのことなのですが、それがわかったら、自分の意志をはっきりと方向づけることができる、と述べられています。
これはとても貴重な人生訓というべきものであり、またわたしなどは、この境地と行動には到底達することができない者として、甚だ書くのも気がひけるところなのですが、言葉としてはとても好きなもので、本来の解釈と玄理とはかなり離れる形になりますが、あえて学業の面に引き摺り降ろして(?)、すこし書いてみます。
別に学校の進度や授業にとらわれず、どんどん先の勉強を進めていこうとしている生徒、またその考えで独自の計画を抱かれているご父母の方が、数は多くないですがおられます。一部高校の範囲まで入試に出る難関の私立高校を受験するなら、それ専門の指導をする塾に通われるのは当然のことでしょう。が、そうではなく、もっとふつうにといいますか志望校をトップ高に置いたり、あるいはそれに近い目標を持ったりして、しかも塾に通うことなく通信の教材や自分で選択した教材など使って、勉強を進めていく生徒がいます。以下は、この後者の生徒とその学習に限定しての、わたしなりのアドバイスの一部です。
ひと言でいえば、「止まる」ことをもうすこし大事にして、といいたいわけです。
誰しも勉強してその「成果」を期待するわけですが、ほんとうに「成果」が得られるには、上の四にも書いてあるように「最善の対処」ができてこそなのでしょう。それでは最善の対処を得るためには、なにが必要かというと、「主体性が定まっておく」ことが求められます。その「主体性が定まる」には、「止まること」を知らねばなりません。
では、勉強する上で「止まる」とは、どういうことでしょうか?
大きくふたつあります。気持ちの上と、作業の上の、ふたつです。「気持の上で止まる」とは、つねに謙虚であれ、そしてまっすぐなものがみえる状態に自己をつねに修養する、ということです。この表現は抽象的過ぎてわかりづらいかと思いますが、本旨は「作業の上での止まる」に重点を置いていますので、これ以上の言及は避けます。
さて、勉強するという作業の上で止まるとは、どういうことでしょうか?
それは、実力を蓄える作業、といいたいわけです。いまの勉強をしている、それだけで実力になっていることは、まず無い。「わかること」と「できること」の違いが、まだわかっていないからです。さらに、いま「できること」を「完全にできる」状態にまでするのが、勉強のなによりもの基本だ、ということを知らないからです。このことを知る、あるいは自覚して行動に移すことが勉強の主体性というなら、この意味での主体性はあるのだろうか?
この主体性を持っている生徒は、実力を蓄える作業というものがどういものであるか、そしてそのやりかたをある程度、またはうすうす知っていますから、「止まる」ことの意味するところもくどくど何度も説明する必要はなく、また指導にもあまり手間はかからないわけです。ただ奈何せん、これはいまの公立中学生を前にすれば、ほとんど木っ端微塵に粉砕されてしまう理屈にすぎず、
その数はあまりにも少ないといわざるを得ません。
ある程度でもいい、うすうすでもいい、自得している生徒はすばらしい。そうではなく、まるっきり知らないといえば言い過ぎだけど、塾などでほんとに受身だけの与えられた勉強に慣れて、しかも公立トップ校に進学した生徒もいるでしょう。こういう生徒は、往々にして高校では伸びません。別に断言はする気はないですけど、自分で切り拓かねばならない勉強の場面になれば大いに
苦労することでしょう。
そういう意味でたとえば、この夏の夏期講習でほとんど毎日塾に通い、それも朝から晩まで10時間以上勉強して、ほんとによくやっているのに、学力テストの結果または実力テストの結果は、思うほどの成果は出なかったとか、よく勉強した科目の点数が意外にも下がってしまい、あまりやっていなかった科目がひょんなことに上がっていたとか、なんでぇ・・・、いったいどうして?と、不信におもったり悔やんだりする生徒や親御さんがおられるかと思います。
こうした場合、どこに原因があったかといえば、実にさまざな要因と生徒固有の問題点が絡んでいるかと思いますが、ざっくりいえば、主体性がない勉強、止まることを知らない勉強に、実はなっていたのではないかと思うんですね。意識は同じ流れに乗ったままですから、次から次へとあれこれ勉強していけば、あれこれのままわかったと思い、あるいはよく勉強したと自己納得する。
果たしてそうか? 別の意識があれば、あれこれのままではいけない、「止まって」もっと自分で考えねば、習った内容のポイントを抽出してもう一度理解を深めねば、いやいや、あれこれのなかのこれは、とてもこの場では覚えきれないから家に帰って再びじっくり暗記せねば、とか、そういう時間が絶対に要ることに、想いは至るでしょう。それが10時間のなかにないとしたら、成果はいったいどこから得るつもりなんでしょう。
学習効果は、その勉強時間の長さによるというより、その集中力による。というのは、正論で、たしかにその通りなんだけど、わたしを含めて凡人は、やはり集中力の持続性に欠けている部分、それを補うものとしてそれなりの時間を絶対的に要す。しかし、上記の例でみるように、ただ時間が多ければそれだけたくさん勉強している=実力も上がっている、というものではないでしょう。
10時間で習う中身によりますが、もしそれが中1と中2の復習であったなら、わたしなんかは、集中力と持続力がなんとか保てる4時間(?)でじゅうぶんというかそれが限界で、あとは場所と気分を一新して、自分の自分の対する勉強として、つまり「止まる」勉強に4時間をかけるかな(余計なことですが)。
だからですね、これと同様に、別に学校の進度や授業にとらわれず、どんどん先の勉強を進めていこうとしている生徒の場合にも、下手すれば、同じようなことがいえるんですね。下手しないように、また間違った意識のまま流れに乗らないように、そのあたりのことは、続きのVOL.2で書いていきます。
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