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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§249 情報の取り扱い方について
<いまの掲示板の主流>

 以前は学習に関する掲示板を見ても、結構参考になる意見や考え方、またすぐれた見識を感じさせる内容、そしてそれこそ貴重な情報だなとつい感心してしまうものがちらほら書き込まれていたように思うのだけど、いつの間にか、そういうものがすっかり減ってきて、つまらなくなった感がしている。いや、もっと率直にいえば、たまに覗くだけでも幻滅するというか不愉快に感じる
ものがめっきり増えてきた。おそらくそう感じているのは、わたしだけではなく、結構おられるのではないだろうか。

 姑息に自分の身は安全なところに隠しておいて、他人や組織(学校や塾)をいたずらに誹謗中傷するだけの、悪意に満ちた攻撃な投書で憂さ晴らしをしているヒマな輩の徘徊しているトピックは論外として、少しはまともな内容であろうはずのものが、低レベルであるし劣悪になってきた。

 そこにあるのは全てとはいわないけれど、ただのおしゃべりの部類、根拠の薄弱な、また受け売りの情報、そしてじゅうぶん分析も問題追及もしていない感想物がほとんどである。まるでそれは、電車や喫茶店で突然他人の携帯電話の内容、埒もない人の私生活の細々したことや仕事の段取りなどを無理やり聞かさる破目になったときの状況、その不愉快さとなんら変わりがない。

 Birds of a feather flock together.(類は友を呼ぶ)なんて、高校の英語で習ったけれど、「悪貨は良貨を駆逐する(by グレシャム)」の例のごとく、それまで比較的良質な意見や指摘をされてきた人たちは、いまの掲示板の本質を見抜かれて一定の距離を置き、遠慮するようになったようにも感じられる。

 さて、情報の取り扱い方を考えるに措いて、3例書いてみます。

 <1例目>
 これは中3の2学期も終わり、いよいよ受験の最終に入ったときの、かつて塾でのお母様、本人との三者懇談をしたときのご質問。

「近所にいる息子の友達で、○○セミナーに通っているんですけど、その子の母親の話しでは、土・日も朝早くから晩まで、夜の10時くらいまで、ほぼ一日中塾に浸かりきりで勉強しているんです。受験校は○○高校(公立トップ校)なんですが、ああ、時間がない、時間がないと言って、たくさんの問題集を解いて勉強しているらしいんですけど、先生のところでは、どうなんでしょうか?
息子の様子を見ていると、一応与えられた内容の勉強はしておりますが、ヒマなときはテレビを観ていますし、気楽に寝転んで漫画もよくみています。どうもじゅうぶんのようには見えなくて、このままで大丈夫でしょうか?」

 塾についてはとてもご信頼をいただき、また成績も順調に伸びた生徒のお母様ですが、それでも受験が近づくとこのままでいいのかと不安やら焦燥は募るもので(当然ですね)、この質問の真意は「先生、もっと勉強量を増やしてくれませんか、または直接面倒をもっとみてくれませんか」というものでしょう。

 その折にわたしが長々と話した(あるいは、説き伏せた?)内容は省きます。
結果を書きますと、その友人は残念ながら○○高校には合格できず、塾生は志望する公立準トップ校(偏差値65)に受かりました。しかし、これがひとつの情報といえるなら、反面、非常に誤解を招く内容でもあるかと考えます。もしこの生徒の偏差値が55で志望校が58以上要るなら、こんなことを耳にすれば即座に叱り飛ばしますよ。「おまえ、漫画を読んでる場合かよ!」と。

 勉強には絶対時間が必要です。それは時と場合によって当然異なるものです。仮に塾で4時間、自宅で宿題など3時間、計7時間(上の内容が土・日なのでそれに合わしますと。実際は日曜日などはしませんが)がこの時期の勉強量とするなら、そしてそれをきちんとできており、まあ、ここが一番重要なのですが、その勉強の中身をつぶさに授業を通して把握できて、良しと判断するなら、あとは本人の勝手、自由に余った時間をさらに気が入れば勉強に、あるいは息抜きに使えばいいだけのことです。それがこの生徒にはできていました。

 それまで地道に培ってきた力、学習への集中力、また受験対策の勉強のしかたに関する具体的で細かな中身、問題集の質、本人の記憶力の度合い、そして持てる偏差値と志望校との関係などなど、生徒それぞれ微妙に、あるいは大きく違うものです。それらがわからず、あるいは考慮せずごっちゃに論じることはできません。他人の情報を鵜呑みにして単純に比較したり、この場合のように、時間をもっと増やせば力がさらにつくというものではない。上っ面に過ぎない情報をいくら多く集めたとしても、それは本人のためになることは滅多にない。それは大抵の人は薄々わかっているのでしょうが、つい振り回されがちになっていますね。<2例目>も同様。

 <2例目>
 わたしの知り合いに、とても教育熱心なお母様がいました。本人はかなり有名な女子大出身、ご主人も医者をしており、小学校から有名塾の送り迎え、また中学受験では志望するところへは残念ながら入れず、まあそこそこの私立へは行きましたが、いろいろと情報を蒐めることも熱心で、あまりに具体的なことは差し控えますが、ときに超難関校に通っているお母様たち数名とその先生とも話を持たれたことも聞きました。高校でも塾や家庭教師、いろいろと親の苦労はあるとして、本人は勉強よりスポーツのほうが好きで、結局大学は、国公立どころか有名私大にも受かることができず、地方の私大に進みました。でもその後、社会人として元気にやっていますから、これはこれでいいのでしょう、というのもなにか変で、僭越なことですが・・・。
 
 <3例目>
 次は掲示板の内容からなので、差し障りのないようにかなり文面を変更しました。非常に多い凡例として。

「学校の定期テストがいかに簡単であるか、塾の学力評価テストを受けてみてよくわかったようです。もっと違う力をつけないといけない。特に英語の長文に慣れないとな、といろいろ反省点も息子(or娘)は見つかったそうです。社会は教科書やノート、プリントだけではなく、資料集の活用も大切だということを感じたそうです」

 参考となるいいことが書かれています(書かれているように見える)。このことにケチをつけてはいけない。が、しかし、へそ曲がりなのであえて指摘します。

 この内容は反省の弁ですね。反省から次のものが生まれてくるかと思いますが、それは真に反省した場合にのみです。ただの感想に過ぎない性質のものやその場の思いつきだけでしゃべる反省の言からは、次の結果はほぼなにも期待できない。生徒のそれを数々観てきた経験から、その実相はよーくわかっています。反省した内容を、たとえば次の何ヶ月かで地道にコツコツ守って実行しうる生徒は、10人に1人ぐらいであろう。それに当て嵌まるとは、とても思えない。

 英語の長文に慣れるとはどういうことか? 慣れる為にどういう勉強を積めばいいのか。どういう教材を使って、また問題集を利用して、学校や塾、自分で勉強するのか。そのときに何を大事にして学習するのか、そして自分で考えていかねばならないのか、また覚え込んでいくのか。これらに対し、完璧な答えなんか要求しない。しかし、せめてこの半分くらいはきわめて具体的にいえないと、実行は覚束ないよ。中3の2学期が済んだ時点で、一体どのくらいの生徒が、英語の長文に、ほんとうの意味で慣れているようになっているだろうか?! 外面と形だけは慣れるんだけど、その中身が伴わない、目を覆いたくなる生徒は、じつに大勢います。

 そしてまた、中1でも中2でも構わないが、この時期(3学期ですね)、学校のテストと塾の学力評価テストとの違いがよくわかったというのは、あまりにも感度というか、認識が低いのではないか。そんなもの、小学校の間におよそ知っていてもおかしくはないし、塾に通っているなら遅くても中1の2学期には気づいて当然である。もっと違う力、つまり自分の実力の正体もしっかり把握
していない。これでは、学校の実力テストや塾の学力評価テストと、入試問題との違いがさらにあるのに気づくのも、おそらくすべて終わってからとなろう。もうあきれてどうでもいいことながら、それでも付け加えるが、社会の勉強に資料集の活用が大切だなんてことは、当たり前のことで、それが当たり前に知っていないいまの生徒(多いでしょう)には、言葉もありません。

 参考となるいいこととは、このようなまだ何も生み出されていないものではなくて、少なくとも反省から生まれたその後の結果が、実はどうなったか?!ということ、それこそが貴重な情報に、ときになるのだろうと思う。もちろんこの書き手はそんなことは視野になく、おしゃべりそのものを楽しんでいるのであろうから、それはそれでいいのでしょうが。まあ、こんな内容に感心しているのが、いまの掲示板の主流なんでしょう。

 あまりにも情報過多の時代。テレビやインターネットがなかった、いまよりはるかに情報が寡なかった昔のほうが、人々は、なにかともっと賢かったように思える。それは、ほんとうに必要な情報と知識を、ときに知恵を、少なくても確実に得ていたり、受け継いでいたからではないか。自らがよく考えもせず、すぐに人の情報に頼ろうとする。その情報が実は、自分でたしかに知ったのではなく、よそから安易に得たものを丸呑みしただけの、または表面だけ加工した情報をいかさま自分のもののように口にしている人が、ほんとに多く見受けられる時代と環境のもとに、われわれはいる。くわばら、くわばら、である。


「子の曰(のたま)わく、由(ゆう)よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為(な)し、知らざるを知らずと為せ、是(こ)れ知るなり」『論語』